お仕事

これから書く文章は仕事がらみの文章です。多分会社にばれるとおこられるんだろうけど、なんかむかつくのでこっちに書いてみます。
ただ、完全にラフ文なので、まともには読めないと思います。それではどうぞ。



毎週日曜日の夜、楽しみにしてるNHK大河ドラマ天地人」。やっぱツマブキ君はかっこええのうって思いながら眺めていると、見慣れた風景が流れてきた。あれ?これって七尾じゃん。謙信は能登攻めで七尾に来てるんだっけか。そういえば、近くの石動山にも城を構えたって聞いたことがあるぞ。うーん、あんなかっこいい武将たちはどんな風に能登で戦っていたんだろう。ちょっと調べてみようかな。

謙信が能登を攻めたのは1576(天正4)年の秋のこと。同年9月に越中を制圧した謙信はその勢いのまま能登へ進軍、津幡、高松などを経て七尾城の近くに陣を置き、周囲の支城を陥落させて七尾城を孤立させると、12月中旬頃には大軍で城を取り囲んだとされる。しかし、さすがは日本五大山城として難攻不落で知られる七尾城。謙信と言えども簡単に落とすことはできず、さらに北条氏が謙信方の関東諸城を攻め始めたため、いったんは越後に帰ったようだ。
しかし、謙信は翌年の閏7月には再び能登に進攻、今度は石動山城に陣を置いて尾根伝いに七尾城を攻める手段を採り、能登畠山氏の臣下の内通もあり、9月には見事七尾城を制圧したといわれている。このときに謙信が通った尾根は現在、林道城石線として整備されて、それを使った地域振興も考えられてるんだっけ。

とりあえず、謙信がどうやって能登を攻めたのかは分かったけど、能登攻めにはツマブキ・・・じゃなかった直江兼続は参加してないんだよな。でも、宍戸開・・・錠が演じた兼続の義父である景綱は一緒に来て、謙信が一度越後に戻ったときには、在番として石動山城にいたんだよね。景綱といえば、謙信の側近として重用された人物。能登ではどんな活躍を見せたんだろう。そう思って史料を調べてみると、景綱は七尾城が落城する前の1577年の3月にはなくなっているんだって。ふーん、そうなんだ。ん?1577年になくなったってことは、まだ景綱が石動山にいたときに亡くなったかもしれないな。

早速、石動山資料館に問い合わせてみたところ「戦国時代の資料は置いてないんですよね」と困った様子。うーん、困ったな。とりあえず、地域の歴史家にでも聞いてみるかな。 さんによると、当時は海運が活発で、能登から越後までは風にのれば半日もあれば着くから、病状が悪くなれば当時の本拠地であった与板城に帰ってたかもとのこと。でも確証はでないね。こうなれば、本家本元の新潟県立  博物館に聞いてみよう。対応してくれたのは  さんの話では、上杉氏の系譜や家中の系譜をまとめた「御家中諸士略系譜」には与板城で死んでるって。あぁ、やっぱりそうなんだ。だけど、かげつなに関しては史料がそろってなくて、まだ謎が多い人物なんだって。
うーん、ますます興味深い話だなぁ。

こんな話を知っておくと、天地人もより楽しめるね。みんなで受信料はらってNHKを見よう。
おしまい。