ご無沙汰

忘れた頃にやってくる、にくいあんちくしょーなこのブログ。みなさん、いかがお過ごしでしたでしょうか。私はそれなりに元気でございます。

特に書きたいことがないのはいつもの通りなのですが、ブログ放置の期間中、いろいろございまして、私、現在、無職でございます。あと、親父がなくなりました。

ま、どうでもいいか、そんなことは。

会社を辞めて、新聞とかテレビをほとんど見なくなり、世間の情報にものすごーく疎くなりました。とはいえ、それほど不自由もしていないというのも事実で、世の中のことに関心がこれほどないのかということを思い知りました。

なぜ、こんなにどうでもいいと思っているのかというと、結局のところ、みんな信じたいことしか信じないし、聞きたいことしか聞かないという身もふたもない事実があるのではないかという結論に至りました。
新聞もテレビもネットも(右も左も関係なく)、自分たちの都合のいいというか、自分たちが正当(正統?正答?)だと思っている情報ばかり長すので、論理的に私が妥当だと思う情報を得るためには、いろんな媒体を党派を超えて触れる必要があります。しかし、そんなことまでして情報を得て、私の生活にはなんのメリットもないという、これまた身もふたもない事実が横たわるわけです。

右も左も、新聞もテレビもネットも、自分たち以外とわかり合う努力を全くせず、蛸壺の中で自家中毒となっている現状も相当ヤバイと思うのですが、政治的にも文化的にも蛸壺を橋渡しできる人間がどこにもいないのなら、これはもうどうしようもない。
池上さんは党派性はなく、「論理的にどっちがましか」というスタンスがあって好きなのですが、どうもそれ以上に踏み込むことはしないので、現状の交通整理以上の役割は期待できないんじゃないだろうかと。

情報の取捨選択が尋常じゃなく難しい時代なんだろうなと思う。党派性とか自分の好みとか希望とかルサンチマンにとらわれず、論理的にましだと思われる情報を得ることはほんとうに難しい。気がつけば、いろんなものに絡め取られて、なんとなく気持ちよくなり、議論、というか、異なる存在とわかり合おうとする行為を忘れてしまう。ニュータイプとかコーディネーターじゃないんだから、話をしないかぎり、ぼくらは分かり合えないのだけど、「どうせ話したってむだ」「あっちが間違っている」というスタンスではもうどうにもならんよ。

この断絶を埋めるには、論理的に誠実であることでしかないんだけど、その論理も果たして正しいのかという自問を続けないといけないし、もうやんなるね、まったく。

ということで、またいつか。