誰がメディアを縛るのか〜次世代メディア・アーキテクチャーを問う〜
現状整理の前に、ちょっと思うことを。
メディア規制に反対する人たちはおそらく、各人が倫理的に動けば間違いは起こらないと思っている。
それはもちろん正論だろう。みんながしっかりとした職業意識をもって働けば世の中きちんとまわるだろう。
しかし、だ。実際はメディアスクラムだの、滅茶苦茶な誤報だの捏造だのが起こっている。
それは単純に日本のジャーナリズムがきちんした教育制度を採ってこず、全てOJTに任せたことが大きな理由なのかもしれない。現場では技術は学べても、倫理までは学べない。倫理よりも自分たちの利益が優先になってしまう。よって今あげたような問題が起こってしまう。本人たちは自分たちの行動のどこが問題なのかすらもわからないだろう。少なくとも、4年間も繰り返し繰り返し学ぶことで、自分の中に少しばかりは倫理観がついたなという実感は私の中にはある。それでも過ちを犯してしまうことがあるだろう。だが、その可能性を幾分かは下げることにはなったはずだ。
この国のジャーナリズムが、現場主義でいくのならそれは結構だ。現場で必要な感性を大事にするのもいいだろう。
しかし、その結果としての倫理観の欠如にはそれなりの責任を取らねばならない。
だからこそ、前回言った「メディアのマキャヴェリズム」を評価する、つまりメディアの正当性を判断する形での規制が必要なのである。
倫理観による統治はメディアに期待できない。もちろん倫理観のあるジャーナリストは多くいるだろう。だがそれ以上に倫理観のない人間も大勢いるのである。
「個人の内面に監視者を設ける(=倫理観を持たせる)ことによって統治する」といったのはフーコーらしいが、東浩紀が言うように、現代の統治は規律によるものではなく、もっと直接的なものになっている*1。
それと同じことはメディア規制にも言える。社会のあらゆることが倫理からもっと直接的な規制へと変化していく流れにおいて、メディアもまたそれに逆らうことは難しいだろう。
というよりも、はじめから「パノプティコン」を拒否したジャーナリズムが、いまさら「倫理の問題だ」ということは虫が良すぎるというものだ。
良心の自由や報道の自由を声高に叫ぶ前に、なぜ規制が必要だといわれるようになったのかをもっと考えねばならない*2。
次回こそちゃんとした更新をします。