誰がメディアを縛るのか〜次世代メディア・アーキテクチャーを問う〜

新聞学科生らしく、メディアについてのお話をしてみよう。


最近ふと考えていたのだが、やっぱりある程度のメディア規制は必要だろうと思う。
こんなことを言うと、やれ表現の自由だとか、報道の自由だとかぬかす輩がいるんだが、メディアがすでに第四権力として認められつつある現代において、権力を無責任に放置しておいていいはずがない。どんな権力も批判されることなくしては腐敗するだけである*1

しかしながら、現在、メディアを規制できる方法はほとんど言ってない。もちろん放送法などはあるが、あれもどれだけ意味があるのか怪しいところである。というか、アレはあくまでハード的な規制であって、中身の規制はそれこそ「表現の自由」に反するというので行われていない。
だが、結局彼らの言う「表現の自由」とは彼らがそれを隠れ蓑に好き勝手やるための免罪符でしかない。何でもかんでも「報道の自由」とかぬかして自分たちの行為を正当化していることに私たちは気がついているはずだ。

話が少し変わるが、西山事件をどう捉えるかについて考えてみたい。

私は以前に述べたように、この問題に対して慎重な立場を表明している。ジャーナリズム側のいうように密約の存在がこれ以降の沖縄と中央の関係、そして日本と米国の関係に大きく影響していることは理解できる。そして、この密約の存在が事実であることも数々の証拠から理解できる。

ただし、そこにいたる過程について、私は西山氏に与しない。

どんな事情があったのであれ、西山氏が情報取得のためにとった行為は社会的に、そして報道者の倫理的に認めるわけにはいかない。何度もいうが、ジャーナリストはデューク東郷でも只野仁でもないのだ。最低限のルールは守られねばならない。西山氏側の意見にはこのような倫理的問題に対する反省が決定的に欠けているのである。
当然反論もあろう。「国民に必要なな情報のためならあらゆる行為は正当化される」と。しかしそれならば、当然政治に関しても同じことを言ってもらわなければ困る。社会学宮台真司がずいぶん前からこんなことを話していた。「法を守ることが正しいと思える社会を維持するために政治家はときに脱法行為を行う必要もある」これはいわゆるマキャヴェリズムについて述べているのだが、これと同じことを政治家だけでなくジャーナリズムにも適用できるかということを考える必要がある。
私はこのマキャヴェリズムは必要だと思うし、ジャーナリズムにも適用していいと思う。ただしそれならば、ジャーナリズム側も政治の脱法に寛容にならなければならない。もちろん、社会的な権益にならないような政治の脱法行為は厳しく批判されるべきだが、現在のジャーナリズムはあらゆる脱法行為を批判しマキャヴェリズムを否定するだろう。自分たちのマキャヴェリズムは正当化し、政治のマキャヴェリズムは否定するという恣意的な態度が西山事件の背後には存在するのである。私が西山事件を知ったときから抱いていた違和感はこの恣意性にあったのだと思う。

閑話休題
このマキャヴェリズムを認めるならば、ジャーナリズムの役割は自ずと決まってくる。それは政治の脱法行為がどれだけ正当なものかを判断する役割である。それは単純な批判よりも数段難しいものであるが、自分たちのマキャベリズムを認めさせるためにはこの行為を避けては通れないだろう。
そして、このメディアのマキャヴェリズムの正当性を問うためにメディアを縛る何かが必要になってくるのである。

では、これは誰の役目なのか。当然政治が行ってはならない。かといって市民なんてものに任せるのも駄目だ。市民はマキャヴェリズムの存在自体を認めるはずがないのだ。

ならば、誰がメディアを縛る存在なのだろうか。次回はこの点について現在ある組織の分析をもとに考えてみようと思う。

*1:まぁ、すでに行政も立法も司法も腐りきってるんだろうけど、それもまた批判の甘いメディアの責任であるのは言うまでもない。ただメディアだけのせいにするわけにもいかず、当然国民の責任でもある。憲法では投票に責任は負わないと定義されているが、当然選んだ国民に責任はあるはずだ。