光市母子殺人事件に思ふ

この事件の関する記事やニュースを見るたびに、呉智英の言っていたことがいかに正しいかを実感する。呉氏は言う「近代刑法は加害者の人権のみを考慮して作られた」と。そしてここから呉氏は人間が持つそもそもの権利*1としての復讐権の復権を主張するのだが、これはこの前の日記につけた朝生の動画を見てくれれば大体わかると思うので今回は省略。
そう、近代刑法は基本的に加害者を守るためにあるので、その行為がどのようなものであっても、法において決められた範囲でしか罰を与えられないということになっている。だからこそ、この事件のようにとても残忍に思える事件においても、死刑にならなかったりする。
感情的な面から言えば、この事件の犯人のような人間のクズみたいな、というかもはや人間ですらない野郎はとっとと死んでくれたほうが世の中のためなんだが、法においては死刑にならない限り、死刑にしてしまっては法律が成り立たなくなってしまう。ゆえにこんなクズでも死刑にするわけにはいかないのである。
もし私がこのような事件に遭遇したら、問答無用で犯人を殺しているはずだろう。そういう意味でこんな目にあっても法の力を信じている本村さんは近代市民として偉いなと思うし、ここまでされても信じなきゃいけない法とはなんなんだろうかとも思う。私は法学部の勉強はひとつもしたことが無いのでなんとも言えんのだけれど、法学部で勉強しているような人はこういう状況をどう思ってるんだろうか。

それから、この事件の弁護士が色々バッシングされているが、そのバッシングもどこかピントがずれてるような気がしてならない。そりゃ、彼らの主張していること自体はどうしようもなくアホなことだが、あんなことを言ったからと言って死刑が回避できるわけではない。裁判官もそんなにアホではない。
一、二審で無期懲役の判決が下されたのは、あのゴミが未成年だったということや、計画性が無かったなどという要因、そして何より「反省している」ということがあり、それを裁判所が認めたからだ。よって差し戻し審でもこれらの主張をすればいいのだが、その主張を支える根拠がもう滅茶苦茶。だから非難されるべきはこの滅茶苦茶な論拠であるはずなのに、それがなぜか「死刑廃止論者のプロパガンダだ」という批判のされ方をしている。
私はなぜ彼らがこのクズの弁護を引き受けたのかという経緯は知らないが、普通に考えて、彼らが人権派の弁護士だったがゆえに、被告の弁護を受ける権利を守ろうとして引き受けたのだと思う*2。彼らは「人権派」で「良識的」な弁護士だから、当然死刑にも反対なだけである。おそらくこの事件を使ってプロパガンダをしようなんて全く考えていないはずだ*3
だから、人権派であるがゆえにこの弁護を引き受けざるを得なかっただけの話なんだよ。で、人権派ってのは大抵死刑に反対してるだけってことだ。なんかこんな単純な理屈も考えないで感情に引っ張られてるのはいかんなぁと思う。
まぁ、近代国家である以上、クズでも弁護を受ける権利は確保されているので、弁護をすること自体は批判できないというよりも、批判しても意味が無いんだよ。繰り返すけど、近代刑法がそういうもんなのよね。
いや、ホントにさ、人権ってなんなんだろうってちょっとは考えて欲しい。まぁ、一番考えるべきの人権派の弁護士がアレだもんな。なんなんだろうな、このやるせなさ。

*1:一般的に言う「人権」とは違うので注意

*2:まぁ、その人権に対して何の疑いも持たない時点ですでに思考停止と変わらんような気はするが、それは横においておこう。俺がもし弁護士だったら、確実に引き受けないか、あえて受けて死刑にしてやろうかとも思う。人権なんかに縛られて本当に苦痛を感じてる人が損をするくらいなら、人権なんて必要が無いんじゃないのか。

*3:考えているのだとしたら、救いようの無いバカだと思う。よくそれで司法試験なんか通ったなって話だよ