冷酷者の暖かな目線

こういうことを書くと、方々から異論が出そうではあるがとりあえず書いておく*1

最近、教科書検定において沖縄戦の集団自決の記述の一部が削除されたことが波紋を呼んでいる。集団自決が「軍によって強制された」ということが「断定的」だということによって修正されたのだ。
もちろんこれに対し、左翼的な人からは「歴史を無視する行為だ」「戦争を美化している」などという批判が、右翼的な人からは「軍に対するいわれもない誤解を解いた」という賞賛があがった。

正直、この問題に関して語れるほどの知識は私にはないが、どこか変なことを言っているなぁと思う。

このような問題に関して、今更どっちが正しいと言うことはできないだろうが、それでもできるだけ慎重な姿勢をとるのが良識的な姿勢だと思う。「歴史学」なんて「学」とついてはいるが、結局は「こうだったらいいなぁ」という個人的な願望の影響をたぶんに受けざるを得ないだろう。だから、どう転ぼうが正解になんかたどり着けないのである。

沖縄戦の場合、おそらく軍による命令のようなものはあっただろう。人間誰だって自分からあっさり死ねる人はそうはいない。しかし、おそらく自ら進んで死んでいった人間だって多くいるだろう。現代においても、自分の信念や覚悟で死へと進む人間はいる。また、そのような人間を横目に「自分だけが死ぬことはできない」と倫理観から死んだ人もいるだろう。当然、そのなかにはいやいや死ぬ人も多かったはずだ。それも含め「強制」といってもいいかもしれない。

そもそも「自殺を強制する」とはどう意味なんだろうか。「死ね、さもなくば殺す」ということなのだろうか。そしてその言葉通り「はい、死にます」と言って行った自殺は強制的といえるのか。意識を持たない赤子ならともかく、そういわれて自分で死を選んだのなら、それは自分の意思と言うこともできる。「強制」と言う定義はとても幅の広いものである。その意味を何も考えずに安易に流されてはいけない。

たとえ、外部からの強制的な何かがあったとしても、自殺を選ぶのは自分だ。それは現代の自殺でも同じことだ。いじめ、借金、不安。外部的な理由でどうしようもなく死を選ぶ人は悲しいことだが確かに存在する。彼だって死にたくて死んだわけではない。もっと生きて色々なことがしたかっただろう。そう、彼らの死だって、一面では「強制的」である。しかし、それでも自殺であり他殺ではない。遺族は「あれは自殺ではなく。いじめたやつ等に(会社に、借金取りに)殺された」というかもしれない。でも、やはりそれは自殺と呼ばざるを得ないし、死に追いやった人たちを殺人罪で裁くことはできない*2

私は権力なんて信用しない。今回の修正もおそらくは例の「愛国史観」の動きがあったのだろう。しかし、私はそんな物語に自分のアイデンティティを委ねていないので、別に誇りなんか回復しないし、かっこいいとも思わない。
一方で私は「市民」とか「民衆」も信用していない*3。集団自決を生き残った方が涙ながらに「あれは命令されたのです」と言っても、「ふーん」としか思わない。もちろん沖縄戦を軽視しているわけではない。生き残った人は表現できないような悲惨な経験をしたはずであるし、それはお気の毒としかいいようがない。もちろん戦争なんか絶対にやりたくないとも思う。
しかし、それでも安易に考えることはしない。
人間は極限状況において、不安定感や不条理感から逃げるために合理化を図ると言う考えがある。それによって自分を落ち着かせ状況を受け入れることができるのだと言う。例えば、強姦事件にあった女性はときに自分を責める場合があるそうだ。「自分にも責任があったのではないか」と。もちろんそんなはずはない。強姦を行った犯人だけが悪いのだ。しかし、そうであっても自分の身に降りかかった不条理を合理的に受け入れるためにそのような心理が働くのである。
もしかすると、集団自決の生き残りの方にもこれと同じ事態が起きたかもしれない。「集団自決」と言うこと自体が恐ろしく不合理である上に、その上「自分だけ生き残ってしまった」という罪悪感のようなものもあっても不思議ではない。そのような不合理をどうにかして合理化するために「あれは軍による強制だった」としたと考えることもできる。
こんなことを書いていると「冷たい人だ」とか「被害者のことを考えろ」とか言われそうだし、自分でも酷いことを言っているとも思うが、良識的であろうとすればやはり慎重に意見を捉えなければいけない。それが責任だとも思う。感情を持たない人には何の魅力も無い。新聞記事にだって心が無ければ伝わらない。しかし、それと理性的に考えることは別だ。心からの思いと事実がかけ離れる場合もあるだろう。それでも考えることは考え、伝えることは伝えなくてはいけない。

先も言ったように、この問題に答えなどは無いだろう。
ただ、それでもマシな方法があるとすれば、両論をきっちり併記したうえで、子供舘に自己責任で考えさせればいい。私は自虐史観にも愛国史観にも与しない。歴史学が恣意的なものであるなら、より論理的に、客観的に正しいことを考えるだけである。
そして、そう考えても人間や歴史の不条理を全て理解できるものではない。そこで必要なのは学問ではなく文化だからである。人間存在の深みは学問以外のところで学ぶべきなのだ。


南京事件にせよ、従軍慰安婦問題にせよ、こういう大事なところが抜けているように思う。みんな断定的な真実しか求めようとしない。南京事件従軍慰安婦があったかなかったか、という二極論しかないのは相当の問題ではないのか。慰安婦問題などはつい感情的になってしまいがちだが、朝鮮人に関しては銃剣で脅して連れ去ったという証拠はないという調査が秦郁彦という人によってなされている。その中で秦氏朝鮮人には強制的なものはおそらくなかったが、南太平洋諸島においては強制的なものがあったかもしれないとしている。もちろん、これに対する反論もあるだろう。ならば両方を見た上で判断すればいいだけのことである。

自虐史観への反発も、被害者たちの見せる涙への同情も、どちらも理解できる。
しかし、それだけで判断を決めることは思考停止と同じだ。そうなる前にまず疑い、考えてみることが、せめてもの誠意であり、歴史への責任ではないかと思う。

*1:いや、別に異論が出ること自体はとてもいいことなんだけど、それを心の中で留めるような人がいるから困る。異論があるなら匿名でも別にいいからコメント欄にでも書けばいいのにと思う。それがまた新しい知識になるのなら、私はどんな言葉でもうけいれるさ。

*2:もちろん、民事では損害賠償請求などはできるが

*3:たぶん、こんなこと思ってるからどこの新聞社も落ちるんだよなぁ