どちらにせよダメということ

先日自殺した松岡農相。結局汚職事件に関しては何もわからずじまいで終結してしまったように見える。
とある情報によれば、自殺の数日前に地元のほうに東京地検特捜部が入りあれこれと押収していたようだ。それらの証拠からすると、「限りなく黒に近いグレー」というべき状況だった。

さて、自殺後、安倍総理は「「ご本人の名誉のために申し上げておくが、『緑資源機構』に関して捜査当局が松岡農水相や関係者の取り調べを行っていたという事実もないし、これから取り調べを行う予定もないという発言があったと聞いている」なんて言葉を記者たちに吐きまして、これがいわゆる「指揮権発動」に繋がるんじゃないかといって大騒ぎになったが*1、農相が限りなく黒であり、松岡氏の地元に人を送っているという事実があるのなら、ここで安倍総理はウソをついたということになるのではないか。

そう思ってとある方に尋ねて見たところ、面白い答えが返ってきた。
たとえ官邸筋から問い合わせが来たとしても、公的な見解として「今やってる活動は緑資源機構に関してだけだ」というに決まってるのだそうだ。もちろん射程には松岡氏が入っているのは間違いないが、そこで認めることは絶対にない。安倍総理はおそらく検察側からこのような返事を受けて、上記の発言に至ったのだと思う。

しかし、そうだとすると、またしても問題が出てくる。安倍総理は検察の言葉を額面どおり信じていたのかということだ。どう考えたって建前だろうことは想像できる。こんな想像もできないバカだったのかとも思うが、これに関しても尋ねてみると、おそらく安倍総理は知っていただろうということだった。となると、結局のところ、検察に狙われているのを薄々気づいていながら、それでもそんな予定は無いと聞いているとウソをついたことになる。しかも、自己保身のためとはいえ、そんなこと言ったら「指揮権発動だ!」と非難されることぐらいわかりそうなものなのに、その辺にはまったく注意を向けてなかったという意味でもダメなのだ。

まぁ、どちらにせよ情けない話ね。


情けないついでにもうひとつ。

結局のところ、先天的に色々恵まれている人間が最終的には上に進んでいくのかという思いが最近ずっとある。
それは家庭環境や生育環境という自分ではどうにもならない部分での格差というものが確実にあるからだ。人は言う「人は平等で努力すればなんとかなる」と。そんなものはとっくの昔に無効になり、今ではそう信じ込まされるフィクションになっている。そのフィクションを信じたゆえに、ある程度まで進んだが、そこから大きな壁にぶつかる人間も少なからずいるだろう。こいつらはどうすればいいのだ。
世の中が「経験至上主義」のようなことになっている以上、いろんなことをやってきた人間が勝つのは当たり前なのだろう。時間的にも、経済的にも余裕のある人間は文化活動もスポーツも何でもできる。そこで得た「人間力」と呼べるようなものは確実に評価される。しかし、そんな余裕も無い人間がそれでもできること、体験ではなく読書によって得た教養などあまりに評価されなさすぎる。
苦労は買ってでもしろというが、それで得たものなどつまらん同情だけだ。
こういうことを言うと、「上手くいかないのを人や社会のせいにして」と非難される。もちろんそうだ。きっと人格的な理由があるのだろう。しかし、そこを含めて「先天的」なのだ。<だったら最初から「オマエのいるべき場所にいろ」といわれたほうが幸せなのではないか>
こういう宮台の主張は的を得ている。「平等」というフィクションの犠牲者になって苦しむよりは、適度にシステムとして平等が確保された範囲内で生きていくことのほうがよっぽどしあわせなのではないか。

しかし、もう戻れなくなっている人間は、もはや進むも地獄退くも地獄、前門の虎後門の狼状態に陥りつつ、日々苦闘している。そうどちらにせよダメということ。情けない話だ。

ただここに来てやっと腹がくくれるということもある。失うものなどもはや何も無い。

*1:これが指揮権発動に当たるかどうかは賛否分かれるところだろうが、実際のところは言葉尻をどう捉えるかという言葉遊びにしか過ぎないと思う。いくら安倍を叩きたいからと言ってマスコミがどうでもいい言葉遊びをしてるのはなさけない。お前らヒステリックになりすぎ。こんなぬるめの言葉捜査作を止めるほど特捜部は腑抜けた連中ではないだろう。実際に指示として指揮権発動が起こったとすれば、検察内部から相当の反発があり、当然そこからマスコミに伝わってくるはずである。捉え方によっては指揮権発動のようにもとれるのなら、安倍総理の空気の読めなさこそを批判すべきである。