清潔で 平坦な 世界

さっき何気なくニュース23を見てたら見世物小屋の特集をしていました。

見世物小屋を簡単に説明いたしますと、蛇を食ったりだとか、口から火を噴いたりだとかする変な芸と河童のミイラなどのような変なものの二本立てで構成される興行で、大体はお祭りなどで仮設の小屋を建て、その中で行われることが多いそうです。

といっても、ちっちゃなお祭りの数が減るとともに見世物小屋を運営する団体も減少し、今ではたったの二件しかないと23では言っていました。

まぁ、確かにそういう要因はあるのでしょうが、それ以外の理由もあるように僕は思います。おそらく、現代の社会がもはや見世物小屋という興行を認めないようになっているということが大きいのではないでしょうか。

実は以前の見世物小屋の出し物のなかには小人やせむし男などのようなフリークスも含まれており、それもまた大きな魅力としてあったようです。
もちろん、現代でこんなことをやれば即差別だといわれるでしょう。よって、見世物小屋は大事なコンテンツを失うことになってしまい、その魅力もまた失われることとなったのです。

皆さんのなかには、奇形者を見世物扱いするなど言語道断と思う方もいらっしゃるでしょう。
そんな中に彼らを置くのは人権侵害だと思う方も多いでしょう。
確かにそれは正論かも知れません。

でも、僕はもっと別の見方だってあるんじゃないかと思っています。

見世物小屋にいた奇形者の彼らは一体どんな気持ちで見世物となっていたのでしょうか。日々、人々の好奇の目にさらされ屈辱を感じていたのでしょうか。
もちろんそういう感情が全く無かったわけではないでしょうが、それ以上に彼らには「見世物としての誇り」があったのではと僕は思います。彼らの仕事は見世物としてお客を満足させることにあるのです。お客さんの満足した顔を見れば彼らだってきっとうれしかったのではないでしょうか。そこにはおそらくプロ意識があったはずです。
ある意味で、奇形者が奇形者としてのアイデンティティをさらけ出し、それが受け入れられる世界が見世物小屋だったのです。
また、お客の方も単純に好奇心を満たすだけではなかったでしょう。おそらく、心のどこかで罪悪感のようなものを感じながらそれでも笑ってしまう、楽しんでしまうということだったのではないかと思います。そして、そのことが奇形者への理解を深める場としてあったのではとまで思ってしまいます。

それでは、現代の奇形者にはそのような場があるのでしょうか。おそらく私たちが奇形者などに会ったときの扱い方は私たちとまったく同じようになるでしょう。小人もせむし男もみんな僕たちと変わらない存在としてあるでしょう。
しかし、実際のところこの間には深刻な溝があります。それは全く表面化しませんが、逆にそのほうがタチが悪いとは思いませんか?違いは違いとしてはっきりさせるべきなのです。

安易にくさいものにふたをしてなかったことにするのは意味のあることだとは思いません。それは何の解決にもならないでしょう。

彼らのあるがままを見て、笑い、そしてどこかで罪を感じる方がよっぽど人間らしいと思うのは僕だけでしょうか?

この世界は確かに清潔な社会であるかも知れません。でも、その清潔さはどこかのっぺりとした一面ペンキで塗りたくられたような清潔さなのです。清潔で平坦な世界よりかは、すこしばかり混沌としていても奥行きのある世界のほが僕はいいと思います。