アフター11イヤーズ〜僕らと彼らの距離〜②

どうも、お久しぶりです。前回から一週間以上経ってしまいました。現状としては『アンダーグラウンド』を読み終わりました。実はもっと続けようかと思ったのですが、とりあえず宗教の話は今回で終わりにします。

さて、私たちがなぜ新新宗教を理解しにくいのかということの理由なんですが、そこには宗教そのものの特性が大きくかかわっています。
その特質とは全ての(創唱)宗教は誕生時にはそれまでのパラダイムとは異質の存在であるということです。つまり、キリスト教だろうが仏教だろうがイスラムだろうが創価学会だろうがラエリアンだろうが、生まれたての宗教はみーんなアヤシイというわけです。

まぁ、よく考えてみれば、宗教に惹かれる人ってのはなんらかの理由でその社会に不満がある人なわけだし、その宗教がその社会のパラダイムのまんまであったら宗教なんかなくてもいいって話になるので、僕らから見ておかしいのは当然なわけだな。
そして、この「パラダイムと異質」ということが、現代の日本人と新新宗教との関係においてのキーワードになるのではないか、つまり、このレポートを進める上で重要になるのではないかと僕は思っています。

現代に生きる私たちが「異質」な存在に遭遇したとき、そこで起こることは「排除」であるといえるでしょう。その排除とはいじめなどのように暴力的な行為によって進められることもあれば、障害者たちを施設に閉じ込めるような非暴力的な行為もあるでしょう。そしてこの行為は意識的、無意識的関係なく起こっています。

おそらく、私たちと現代宗教のかかわり方は無意識のうちに行われる非暴力的排除として表現されるべきものではないでしょうか。
さらにいうならば、反対側の視点、つまり宗教側からすれば異質な存在である現代社会に対しての排除というものも行われているでしょう。地下鉄サリン事件というものはオウム真理教が自分たちにとって異質である現代社会に対して行われた暴力的排除という一面もあるのかもしれません。

私たちは自然と「私たち」「あいつら」の二項対立として宗教との関係を築いているのだと思います。実際に『アンダーグラウンド』のあとがきで村上氏も「こちら側」「あちら側」という表現をしていますが、こういう考えは実は民俗学的な異人論の中で多く用いられています。今回私が参考にしているのは赤坂憲雄氏の『排除の現象学』という本なのですが、ここでみられる異人とはつまり、ある共同体の外にいる人間のことを指しています。そして彼らが現代社会のなかで排除されるプロセスを示しています。今回のテーマとは離れる部分もありますが、なかなか興味深い論なので読んでみてはいかがでしょうか?

さて、あまりだらだらとつづけても仕方ないのでまとめに入りましょうか。
上で問題にしたことは私たちの意識の中にある二項対立の存在でした。つまり「私たち」「あいつら」という対立のことです。しかし、近代以前においてはこの対立の間には仲介役のような存在がありました。それは障害者であったり、吉外の方だったり、乞食だったりするわけなんですが、彼らは社会から排除される一方でその社会と異界との繋ぎ役としての役割を持たされ、ある意味で「神聖」なものとしてあったのです。
しかし、現代においてこのような存在はないものとされています。彼らは今、障害者施設や精神病院、都会の片隅に追いやられているだけ、排除されているだけです。

今、私たちが必要なのは異界に対しての媒介役を持ち、異人に対しての二項対立を改めることなのではないでしょうか。その点において現代の仲介役になりうるのは文字通りマス・メディアであるはずなのですが、オウム報道やその後の新新宗教に関する報道をみるにつけ、それは無理なのかなぁという風に思います。新聞学科的なまとめはこんな感じです。笑

二項対立ではなく、異人もまた社会の中に内包できるような人間になれればよいですね。